暗闇にぼんやりと浮かぶ白い扉。
目の前まで歩み寄るとゆっくりと鈍い音を立てて扉が開け放たれた。
扉の先の円形の部屋に足を踏み入れてみると何処までも昇り続けているのではないのかと錯覚しそうな程高く積み上げられた本棚が八方をぐるりと取り囲んでいる。
本棚にはぎっしりと古書が並んでおり、一目見てかなり立派な図書館だと分かった。
正面に目を遣ると自分が入ってきた扉と丁度向かい合うように錠付きの大きな黒い扉がある。
不吉な気配を纏った印象を受ける黒い扉にまるで吸寄せられるかのように俺は前へと足を進めた。
「ああ、すみませんがそれ以上先には進まないで下さい。大切な本が濡れてしまいます。」
漆黒の扉の数メートル手前で俺は制止の声を掛けられた。
辺りを見回してみると少し先には高く積み上げられた古書が並んでおり、その古書の上に細身の青年が腰掛けこちらを見つめていた。
俺を見つめる眼鏡の奥の瞳は左右で色が違う…右目は鷹のように鋭く見つめた相手を射貫く金、左目は慈愛を湛えた深い藍。
肌の色は雪のように白く艶やかな黒髪を更に美しく引き立たせている。
「もう今日は誰もこないかと思っていたのですが…おやおや、随分変わったお客様がいらっしゃいましたね。服を着たまま海水浴でも楽しんだのですか？」
青年の"服を着たまま海水浴"という奇妙な言葉で俺は漸く気がついた。
今の自分は全身びしょ濡れで上着の袖からはボタボタと水滴が落ちている。
何故濡れているのか…それすら思い出せない。
思い出せない、と言うよりも今は思考する事に疲れ果てていて何も考えたくなかった。
青年はひらりと地面に舞い降りると返答もせず黙りこくったままの俺へと歩み寄ってきた。
「初めまして、僕はミシェル。この図書館の司書をしている者です。貴方は…？」
「…ヒュー。」
「ヒュー君ですか。短い時間ですが宜しくお願いしますね。」
そう言ってミシェルは俺に向かって手を差し伸べてきた。
その白く細い手を握ろうとして俺は躊躇した。
今の俺は何故だか分からないがびしょ濡れでこんな状態で握手したらミシェルの手もびしょ濡れだ。
「…貴方は優しい方ですね。」
微笑みを浮かべたままミシェルは俺の手を半ば強引に掴むと強く握手した。
雪のように白い肌とは裏腹にとても温かい温もりを感じる。
いや、ミシェルの手が温かいというより今の俺の手が酷く冷たいのだろう。
その温もりに僅かに緊張が緩み、俺は疑問に思っていた事をそのまま口に出してみた。
「…ここは？…一体、何処なんだ？」
「ここは"狭間"です。そしてあの扉は…。」
ミシェルは俺の手を握ったまま背後にある黒い扉を振り返った。
「あの扉の先は新しい世界…貴方方に分かりやすい言葉で言えば死後の世界ですね。」
「死…？」
「そう、貴方は今生と死の狭間を漂っているんですよ。」
浮世離れした話だ…きっと俺は夢でも見ているんだろう。
だが、ミシェルの言う事がもしも本当ならば、…あの扉の先には…。
再び黒い扉に向かって足を進めようとした俺の手をミシェルが強く引っ張った。
そういえばまだ握手をしたままだった。
ミシェルのか細い腕を振り払おうとして俺は手を強く引いたが思いの外ミシェルの力は強く振り払う事は出来なかった。
「…離してくれ。」
「言ったでしょう？本が濡れますからこの先には足を進めないで下さい。」
「だったらアンタが本をどければいいだろ…あの扉の先に、会いたい人がいるんだ…！」
「駄目です。」
ミシェルがキッパリと言い放つ。
「貴方はあの扉をくぐる前に見つけなければならない大切な"探し物"がある筈です。」
「探し物…？」
「そう。彼女からも言われた筈ですよ。」
ミシェルの言葉に俺は身体を強張らせた。
何故ミシェルが彼女の事を知っているのか…いや、それよりもミシェルの言う通り俺は彼女との最期の別れ際に何かを言われた筈だ。
でも今の俺にはそれが何だったのか思い出す事すら出来なかった。
思い出そうとしても溢れ出てくる思い出は辛く苦しいものばかりで…今は扉の向こうにいるだろう彼女の元に行きたい、ただそれだけだった。
水滴を溢し頭を振る俺にミシェルは辛抱強く諭すように言う。
「仕方のない人ですね。分かりませんか？貴方にとっての探し物…それは"幸せ"です。」
「…幸せ！？は、馬鹿な…。…もう、ムリだ。」
乾いた笑いを漏らし俺は再び頭を振った。
今の俺に残されたモノ、それは絶望、後悔、未練…それらは到底"幸せ"という言葉からはかけ離れたものだ。
「ヒュー君。」
ミシェルは俺の名を呼ぶと握っていた手を離し代わりに俺の両肩に手を置いた。
肩に置かれた手から痛い程の優しさを感じて俺は思わず目を細めた。
「描いていた未来、夢、そして伴侶…大切なモノを失った絶望の世界で貴方は再び幸せを探し出す事が出来る強さを持っています。」
「…。」
「そしてそれは彼女の望む事でもあるんですよ。貴方は彼女の最期の望みを無視するのですか？」
雷に打たれたような衝撃というのはこうゆう事を言うのかもしれない。
そうだ、俺は約束を破るわけにはいかない。
一人前の整備士になって、親方に認めてもらって…それからじゃなきゃ彼女に会ったってきっと叱られるだけだ。
弱音を吐く事だってこの先何度だってあるだろう。
でも全てを投げ出してしまうわけにはいかない、いかない筈だったのに俺は一体何を迷っていたのだろう…。
俺は肩に置かれたミシェルの手をとると自分の前にまで持って来て強く握り返した。
「ああ、よかった。さっきまでの貴方は今にも死にそうな瞳をしていましたからとても心配しましたよ。」
ミシェルが安堵の笑みを浮かべたその瞬間、ドンドンと何かを強く叩く音が図書館に響いた。
どうやら黒い扉が強い力で向こう側から無理矢理押し開けられようとしているようだ。
頑丈に掛けられた錠は頼りなく垂れ下がり今にも弾け飛んでしまいそうだ。
「折角貴方が生きようという意思を持ったのに今度はあちらが貴方を引き込もうとしているようですね。」
嘆かわしげに言うとミシェルは黒い扉から俺へと視線を移す。
「あの扉が辛うじて閉じているのは偏に貴方を守りたいという彼女の想いのお陰…黒い扉に掛けられたあの鍵は貴方に生きて欲しいという強い想いの顕れです。それを無下にするわけにはいきません。」
「彼女が…。」
「羨ましいです。僕も一度でいいから貴方の様に誰かに強く愛されてみたい…そして貴方のように深く誰か一人を愛してみたいものです。それは叶わぬ事ですが。」
「…え？」
「さ、もたもたしている時間はありませんよ。貴方は今来た道を早急に戻らなければなりません。」
そう言って白い扉へと向かうミシェルの後を追おうとして俺はその場にへたり込んでしまった。
…身体に力が入らない。
水を吸い込んだ服がべったりと肌に張り付き重く圧し掛かってくるかのようだ。
俺は生きなきゃならない…なのに足はまるで言う事を聞かず冷たくなった指先は殆ど感覚を失っていた。
「おや、仕方ないですね。」
へたり込んだ俺に気がついたミシェルが再び俺の元まで歩み寄り突如眼鏡を外すとポケットへと仕舞う。
「今回は特別サービスですよ。貴方が帰るべき場所まで僕がご案内しましょう。」
そう言うとミシェルは軽々と俺を抱きかかえた。
あまりの出来事に正直驚いた。
俺は細身で軽い方だが身長もそれなりにあるし整備士をしている分筋肉だってついている。
しかも今は服が多量の水分を含みかなりの重さになっている…細身のミシェルが俺を軽々と持ち上げられるとは到底想像できる筈もないだろう。
慌てて視線を見上げ、そして俺は更に驚いた。
ミシェルの髪は漆黒の黒からまばゆい光を纏った金色へと変化していた。
俺を抱えたミシェルの身体は僅かに地面から離れている。
そしてまばゆい光に紛れて時折羽根が舞い散るのが見えた。
「…天、使…？」
「そんな大それた存在ではありませんよ…まあ、でも今の貴方を手助けできる唯一の存在ではありますね。」
ミシェルの微笑みは優しく差し込む光はとても暖かくて俺は強い眠気を覚えた。
「さあ、目を閉じて…再び目を開けたとき、貴方は僕の事を覚えてはいないでしょう。街中で僕と偶然出会う事があっても…この狭間の図書館での出来事を思い出す事もない筈です。」
「え、覚えていない…って、ちょっと待っ…」
「探し物、無事に見つけ出せる事を祈っていますよ。」
俺に向かって微笑むミシェルの顔がぼやけ急激に意識が遠のいていくのを感じていた。
― まだ、ミシェルに礼を言っていないのに…。
― 助けてもらったのに…。
― ミシェル…って、誰だっけ…そういえば、俺は海にきて、知らない間に落っこちて…。
押し寄せる記憶の濁流に飲まれ俺は意識を手放した。
空は青く透き通り今日は本当に絶好のドライブ日和だ。
愛車のFIAT5OOの快調なエンジン音に自然と笑みが漏れる。
窓から入り込む風は少し肌寒くて秋から冬への移り変わりを感じた。
助手席の方に目をやるとトビーズは目まぐるしく変化していく景色に夢中なようだ。
「そうだ、みかん狩りに行く前にちょっと寄っていきたい所があるんだけど…いいか？」
俺の問い掛けにトビーズがうんうんと頷く。
ソレを確認してから俺は雑木林の間に隠れるようにある道を左折した。
駐車場に車を止めて助手席のトビーズを頭と肩に載せる。
町外れの図書館を兼ねた資料館…外見は洋館のようでこじんまりとした印象を受けるが中に入ってみるとこれがなかなか広い。
ここの図書館は洋書を多く扱っているので中心街にある図書館よりも俺はコッチの方をよく利用している。
「あ、図書館で悪戯するなよ？他の人に迷惑かけたら怒るからな。」
トビーズ達に一応釘を刺してから俺は図書館の重い扉を開けた。
静まり返った空間から流れてくる少し湿り気を帯びた冷たい空気が心地いい。
扉をくぐると数段の階段を昇り少し奥まった位置にある返却カウンターへと足を進める。
「こんにちは。借りていた本返しに来たんですけど。」
カウンターの中で返却された本を台車に分別していた青年に声をかけた。
俺の挨拶に青年は顔を上げると優しい笑みを浮かべた。
以前車の中から歩道をよたよたと歩く姿を見た、あの不思議な雰囲気を纏った黒髪の青年だ。
名前はミシェルと言ってこの図書館で司書をしているそうだ。
どこか不思議な雰囲気と優雅な動作はこの職種ならではなのかもしれない。
差し伸べられたミシェルの手の上に俺は借りていた本を載せた。
「いつも丁寧に扱ってくださり有難うございます。本もとても喜んでいますよ。」
本を確認して視線を上げるとミシェルは俺とトビーズを交互に見つめ優雅な笑みを浮かべる。
左右で色の違う透明な瞳に見つめられると俺はいつも落ち着かない気持ちになった。
見つめられるだけで心の奥底まで見透かされてしまいそうな気がしてソワソワとした心持ちになる。
そんな俺の気持ちなど露知らずか、ミシェルは微笑を浮かべたまま小さく頷くとゆったりとした口調で語りかけてきた。
「漸く探し物への鍵を見つける事が出来たようですね。よかったです。」
「え…？探し物…？」
「ああ…。」
少しとぼけた様子でミシェルは俺から視線をずらし天井を数秒見上げると再びこちらに視線を戻し眼鏡を指先で軽く持ち上げる。
「見たくても見つからない本がありましたら僕に言ってください。と言ったんです。」
「は、はあ…。」
さっき言った事と絶対違う事を言っているような気がしたが、とりあえずあまり気にしない事にした。
ミシェルとの会話は噛み合わずちぐはぐになる事が今までも何度かあったので正直「ああ、またか」といった感じだ。
「じゃあ、探しても見つからない本があったら遠慮なく聞かせてもらいます。」
「是非聞いて下さい。貴方の探し物を見つけ出す旅の手助けが僕にも出来るのでしたら…それは僕にとってとても喜ばしい事ですから。」
「はは、旅だなんてまた大げさだな。」
司書という職業柄なのだろうか、言う事もいちいち詩人じみていて大げさだ。
心外だと言わんばかりにミシェルは少し肩を竦めると俺に反論してきた。
「おやおや、こう見えてこの図書館は広いんですよ。沢山の本の中から必要なものだけを見つけるというのは大変な事です…というわけで、困った時は何時でも言ってくださいね。」
「確かに、今返した本を探し出すのにも結構時間掛かったしな…今度からはミシェルとトビーズにも探してもらおうかな、な？」
そう言ってトビーズの頭を撫でる。
何時も悪戯してばかりのトビーズだが探し物を見つけ出してくる事に関しては本当に天才的だ。
トビーズの方も乗り気なようで任せろ〜見つけるぞ〜と口々に言っている。
それを優しげな瞳で見つめていたミシェルが俺に視線を移す。
「今度こちらに来た時には探し物、早く見つかるといいですね。」
「ええ、また来週には来るつもりなんでその時には宜しくお願いします。それじゃ。」
ミシェルに軽く会釈すると俺はトビーズを肩と頭に載せたまま出口へと向かった。
途中で振り返るとまだミシェルは微笑みを浮かべたままこちらを優しく見守るかのように見つめてきていた。
俺は何か照れくさくなってきてミシェルへもう一度軽く会釈をすると足早に出口をくぐった。
「…ん、本当今日はいい天気だな。」
図書館を出ると優しく照りつける秋の日差しに一瞬目が眩んだ。
トビーズを再び助手席に乗せ運転席へと乗り込む。
親方が紹介してくれたみかん狩り場だ、きっと美味しいみかんが沢山なっているだろう。
俺はあまり甘いみかんを食べられないけれどトビーズはきっと喜んでくれる筈だ。
沢山のみかんを前にトビーズが喜ぶ姿を想像して小さな幸せを感じつつ俺は再び目的地へ向けて愛車を走らせた。