「よし、踏んでいいぞ、あッ離して。んー…踏んで。」
「ああ。」
「リュウ、悪いけどもう一回踏んでもらえるか?」
「了解、今度はどうだ?」


 2柱式リフトに持ち上げられた車の運転席で俺はブレーキを踏みながら上半身を窓から覗かせ背後で整備しているヒューに声を掛けた。

「よし、これでOK。ありがとう助かったよ。」

 整備を終えたヒューが手をウエスで拭きながら運転席の方へやって来る。

「ああ、ちょっとでも役に立ったんならいいんだけど。」
「いやちょっと所じゃないよ、本当驚いた!リュウは整備の知識はそこそこって言ってたけど明日から直ぐにでも整備士として働ける技量と知識を持っているよ。」

 ヒューは嬉しそうに言った後、まあ半人前の俺が言っても説得力ないだろうけど…と付け加えてちょっとバツが悪そうな顔をした。

「え、ヒューでもまだ半人前なのか?」
「うん、まだ親方には認めてもらえてないから…一日でも早く一人前の整備士になりたいんだけどな。」
「ふぅん、そっか…。」

 ココの親方はちょっと意地悪なんだな…俺は髪留めの代わりに被っていた帽子の鍔で顔を隠して小さく笑みを溢した。
 これは俺の憶測だけど、親方はヒューを一人前の整備士と認めていてもヒューの向上心を保つ為にそれをあえて言っていないんだろう。
 でなきゃヒュー一人にこの整備場を任せて二週間もの海外出張に出かけられるとは思えない。

「とりあえず今日の分の仕事はこれで終わったし就業時間まで事務所で一休みしよう。」
「ん、分かった。」
「しかし定時に上がれるのなんて何日ぶりかな、リュウが手伝ってくれたお陰だよ。」

 シャッターの外に視線を移してみると既に日は傾き夕焼けの赤が工場内を照らし始めていた。
 冬の夜は早い。
 もう暫くすればあっという間にあたりは真っ暗になるだろう。
 外から吹き込んできた凍てつく風に思わず襟を締めたその時、ノビをしながら少し先を歩いていたヒューが「ああ、そうだ。」と言って俺の方を振り返った。

「後で親方に電話で相談して日当出ないか聞いてみるよ、パーツ代もそれで賄えばいいし。」
「え、本当か?…なんか逆に悪い気がするくらいだな。」
「そんな事ないって!ここで整備士として働いて欲しいくらいだ。リュウはもっと整備に関して自信持っていいと思うよ。」

 ちょっと興奮気味にヒューが言う。
 まあ俺の本職は整備士だから仕事は出来て当たり前なんだが…今更ヒューにその事が言える訳もなく、ただ有難うとだけ言っておいた。


 ヒューと一緒に事務所へ入るとまず流しで手を洗い机の上に帽子を置くついでにリモコンでテレビをつけてソファに座る。
 いつも俺が就業後にしている一連の動作と同じだったのでまるで自分の勤めている整備場にいるかのような錯覚を覚えて奇妙な感じがした。

「はいお疲れさん。コーヒーはブラックだけどよかったか?」
「ああ、ありがとう。」

 ヒューからコーヒーの入ったカップを受け取る。
 あまり指に熱さを感じないから恐らくぬるめに作られているのだろう。
 熱いのがちょっと苦手な俺としては有り難い。
 テーブルに自分のコーヒーカップを置いてソファに座ろうとしたヒューがふと何かを思い出したのか、あ!と小さく声を漏らした。
 少し乱暴にカップをテーブルに置くと俺の足をヒョイと飛び越え事務所の出入り口へと小走りで向う。

「ゴメン、俺倉庫に部品の確認に行って来るからちょっとここで休んでいてくれ。部品足りなかったら今日中に発注しておかないといけないんだった。」
「そっか、分かった。」

 そう言ってあわただしく出て行くヒューの背中を見送る。

― ヒューは本当、仕事熱心なんだな…。

 俺はそこまで情熱をもって仕事をしているわけじゃなかったからヒューを見ていてとても新鮮な気持ちになった。
 ただ与えられた時間をただ何となく過ごしているだけ…そんな俺とはヒューはまるっきり違っていた。
 ま、何から何まで一緒ってよりも、その方が安心するけど。


 一息ついて、ヒューの出してくれたぬるいコーヒーを口に運ぶ。
 その時になってつなぎの袖が真っ黒に汚れているのに漸く気がついた。
 よくよく自分の服を見てみるとヒューから借りた新品の緑のつなぎは既に油汚れで真っ黒になっていた。
 …これだけ汚してしまうと流石にパーツと一緒に買い取った方がいいかもしれない。

 借りたつなぎは作業服店でよく売られている量販の物とは違って随分と凝った造りをしていた。
 多分この整備場の特注品なのだろう。
 ズボンの裾は無意味に長めに作られていて俺でも数回折り曲げないと地面に引きずってしまう長さだ。
 大きく作られた襟の部分には本皮のベルトがつけられていてコレも襟を留める為の物というより装飾用といった方がしっくりくるだろう。
 両袖と胸につけられたワッペンにはここの整備場のロゴが入っていてオーナーのこだわりを感じた。
 そしてウエストには普通のつなぎでは滅多に見られないベルト通しが付けられている。
 …そういえばヒューは工具袋から工具を出す際に邪魔にならないようにベルトを逆向きにしていたっけな。

「うーん、やっぱり普通のつなぎより高いだろうなあ…お金足りるかな。」

 そんな事を一人でぼやいていると一台の宅配用の小さなトラックが整備場の前で停まるのが事務所のガラス張りの引き戸から見えた。
 こんにちわぁ〜と威勢のいいオバサンの声が聞こえてくる。
 まだヒューは倉庫の方へ行っていて席を外していたのでとりあえず荷物だけ受け取ってあげようと思い机の上の帽子を被リ直して俺は外にでた。

「お疲れさんです、荷物はとりあえず俺が預かっておくんで。」
「あらヒュー君!髪の毛脱色したの?」
「いや、俺ヒューじゃなくて…。」

 ヒューと区別しやすいようにわざわざ帽子を被ったのだがどうやらあまり意味が無かったらしい。

「目も真っ赤にしてからに、ちゃんと寝てんの!?」
「…いや、あまり。」
「駄目じゃんかちゃんと寝ぇへんと!若いからってムリしとるとその内ぶっ倒れるんだからね?」
「は、はい、スイマセン…。」

 方言交じりのツッコミ所満載な叱咤に頭をへこへこ下げていると丁度倉庫からヒューが出てきた。

「ああ、オバさんこんにちは!」
「…あらぁ、あら?ヒュー君が二人いるわぁ!」

 ヒューと俺を交互に見て宅配便のオバサンは素っ頓狂な声をあげた。



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