「なあ、何でヒューはわざわざ日本で整備士をしているんだ?」 ヒューがアイルランド出身だと聞いてからずっと疑問に思っていた事を聞いてみた。 まあヒューから出身地を聞く前から大体何処の国出身なのかは時折使う英語の訛りで分かっていたんだが。 アイルランドにだって整備場は一杯ある、どうして此処日本にまで来たのかが不思議だった。 「ン…話すと長くなるけど、いいか?」 「ああ勿論。まだ飲み放題が終わる時間までかなりあるしな。」 俺の言葉に通りすがりの店員が僅かに身を竦めたのが視界に入ったが見なかった事にしておいた。 |
|
「そうだな…あれは10歳の頃だったかな。当時は本当、夢も希望も何も無くてさ…ただ与えられた毎日を過ごしているだけだったんだ。俺が道を決めなくても誰かが勝手に決めてくれたから何も考えないで生きていけたし。」 そこで一呼吸おいてヒューはまたジョッキを空にすると一人追加のビールを注文した。 手持ち無沙汰になった指を組んで懐かしそうに語りだす。 「で、通学路の途中にボロボロに錆びた車が放置してあってさ。ああ、俺もあの車みたいに誰の心にも残る事無く過ぎる時にただ流されて朽ちて土に還るだけなんだろうって思ってた。」 「うん…。」 それはまるで今の俺と同じだと思った。 毎日を熱心に生きているヒューにもそんな時期があったんだと思うとちょっと意外だった。 「でもその錆びた車は土に還る事は無かったんだ。ピカピカにレストアされて生まれ変わってさ!…その車をレストアしたのが親方なんだけど、俺その時凄い衝撃を受けたんだ。」 組んだ指先を見つめながら嬉しそうにヒューは目を細めて言った。 「その時に決めたんだ、俺は整備士になってこの人の下で勉強して働きたいって。その日から整備の事や日本の事、猛勉強してさ。最初は親も親戚も大反対だったんだけど日本に旅立つ時には空港まで見送りに来てくれて…頑張って来いって言ってくれたんだ。ちょっと照れくさかったな。」 そう言ってヒューは本当に照れくさそうに頭を掻いてはにかんだ。 いつもどこか作られた笑みを浮かべているヒューが時折見せる本当の素顔の一つだ。 「だから俺はここで頑張って親方に認めてもらえるような一人前の整備士になってみせるんだ。」 「そっか…ヒューは凄いな。」 「凄くなんかないよ、まだ一人前になってないしドジや失敗もよくするし…ああそうだ、リュウはどうして日本に?」 |
|
…逆に聞かれて俺は返答に窮した。
ヒューみたいなご立派な理由も何も無い。
何で?と聞かれたら、何となく、としか答え様が無かった。
親方とは故郷にいる時からの知り合いで「日本に来た時にはウチに遊びに来いよ」と言わていたのでその言葉に甘えて世話になっている。
俺と親方の出会いはヒューのような劇的なモノではなく親方が俺の祖父や父の知人だったというだけなんだが。
そう、本当に何となく…故郷に自分の居場所がないような気がして疎外感から俺は家を出た。
思えば親とは深く語り合う事も激しくぶつかり合う事も無かった…俺なんて居ても居なくても大差ない存在なんだと思っていた。
― 何だかんだいって父さんも母さんも兄さんの事心配しているよ、一度帰ってみたら?
親方から俺が日本に居るという連絡でも受けたのかわざわざ日本に留学してきた妹のそんな言葉も聞き流した。
…俺は家族を蔑ろにしたままだ。
「あ、答えにくいならムリして答えなくてもいいから。」
押し黙って答えに窮した俺の心境を察したのかヒューが慌てて手を振った。
「ん…俺の場合は答えにくいっていうより大した理由もないから答えられないって感じだな。」
俺はビールを口に運びながらとりあえず本当の事をヒューに言った。
「え?…大した理由もなく日本に!?」
「ああ。」
「うーん…俺からしてみればリュウの方が凄いけどなあ。翻訳の仕事してるって言ってたし理由もなくさらっと日本に来れるあたりどこか浮世離れした天才って感じがするよ。俺なんてガキの頃から勉強してても日本語まだマスターできないし…秀でた所が無い凡人だからさ。」
外見はそっくりなのに俺より全然凄いよ!と言って一人ウンウンと相槌を打っていたヒューの元へ漸く追加のビールが来た。
「ま、でも酒の強さとリュウに出会えた運の強さは人並み以上だと思ってるけどな。」
そう言ってヒューはからかう様に俺のジョッキに自分のジョッキを軽くぶつけてきた。
俺は内心ヒューは事故で彼女を亡くしているのだから強運というより不運なんじゃないか?と思ったが突っ込むとヒューが凹みそうだったので黙っておいた。
そして俺はこの時ヒューの「凡人」という言葉を軽く聞き流したが思えばこれはとんでもないウソだった。
この後、凡人とか天才とか…そうゆう簡単な言葉で区切る事が到底出来そうにないヒューの超人的一面に俺は遭遇する事になる。
→17