「…!」

 …筈だった。
 俺の指は何も無い宙を掴み、そして相手は紙一重で俺の指をすり抜けバックステップで間合いをとっていた。
 正直驚いた。
 間合いもタイミングも完璧だった筈だ、これで避けられた事など今まで一度足りともなかった。
 咄嗟に腰ベルトからナイフを抜き取ると構えを取り相手と向かい合う。
 どうやら相手も何かを抜き取り構えたようだが仕掛けてくる様子はない。

「…。」

 俺は暗闇の中向かい合う相手を目を凝らして観察した。
 丁度外の光が入らないビルの一角にいる為はっきりとは分からないが…がたいはそんなによくない、寧ろ華奢な方だろう。
 背は俺よりも低いがそれなりに長身の部類に入る高さだ。
 さっきまでの脅えた気配は消え去り、今は肌に刺さりそうな鋭く研ぎ澄まされた緊張感が伝わってくる。

― どうやら少しは楽しませてもらえそうだ。

 一歩大きく間合いを詰めると相手の急所に向けてナイフを突き立てる。
 急所に突き刺さるよりも早く相手が持つ鈍器のような得物がナイフを弾く。
 そして何度目かの打撃の後、ガキッという鈍い音がしてナイフが鈍器に絡め取られた。
 相手が鈍器をいなすよりも先に身を引いて再び間合いを取る。
 咄嗟に身を引かなければナイフは簡単に弾き飛ばされていただろう。

「…ッチ。」

 真っ暗闇を選んだのは失敗だった。
 暗闇の中で物を視る事を鍛えている俺でもこれだけ真っ暗だと相手がどんな得物を使って攻撃してきているのか正確には把握できない。
 少なくとも今まで経験してきた幾多の戦闘の中ではお目見えした事のない武器だろう。
 武器だけじゃない…相手の身体能力もとんでもないモノだ。
 俺は今までの経験と勘を使って相手の攻撃をかわしているが、相手は驚異的な身体能力を駆使して強引に攻撃を避けているといった感じだ。
 気配は丸出しな上動きも荒削りでプロの殺し屋とは到底言い難いが…そこいらの殺し屋とは比べ物にならないほど厄介な相手だ。
 だが、だからこそ面白い…。
 久々の手ごたえのある獲物に思わず俺は笑みを溢すと再び間合いを詰めナイフを力の限り叩き下ろす。

「…くッ!」

 ナイフと鈍器がぶつかり合った瞬間強い衝撃に相手の喉からくぐもった声が漏れた。
 力では俺の方が勝っているようだ、ナイフを受けた鈍器が僅かに震えている。
 震える鈍器を強引に弾き飛ばし手に持ったナイフを横に薙ぎ払った刹那、相手の気配が目の前から消え代わりに俺の右側にある壁からドン、ドン、という衝撃音が伝わってきた。
 嫌な予感を感じ咄嗟に前転でその場から離れる。
 その直後、今さっきまで俺がいた場所目掛けて上方から人影が舞い落ちた。
 相手は壁を蹴り登り頭上から俺に蹴りを食らわせようとしたのだろう、避けるのが遅ければ真上から痛烈な蹴りを喰らっていた。
 壁を蹴り上げてのバク宙は普通なら2、3回壁を蹴るのが限界だが、今やり合っている相手が壁を蹴り上げる音は少なくとも5回は聞こえた。
 コイツはゲームかマンガに出てくる強化人間なんじゃないかと俺は思った。

「……。」

 再び間合いをとってナイフを構えると相手も鈍器を手に俺に向かって構えてくる。
 先刻俺が弾き飛ばした鈍器とは恐らく別のものだろう。
 重い鈍器を何個も持って華奢な体であれだけ動き回れるとは大したものだ。
 そしてここまでやり合って相手は接近戦のエキスパートだというのは分かった。
 俺はドチラかと言えば中距離から遠距離での戦闘を得意としている。
 このまま近距離で戦いつづけるのは分が悪い…バックステップで相手との距離を数メートルとり懐に仕舞っていた銃を抜き取ろうとしたその瞬間、空気を切り裂く音が届くのと同時に何かが肩を掠った。
 咄嗟に身を捩っていなければ肩を貫かれていた所だ。
 肩に残るチリチリとした感触に俺は思わず舌打ちした。

―暗器使いか。

 後方で朽ちたコンクリートに暗器が鈍い音を立てて突き刺さるのが僅かに耳に届いた。
 近距離では奇怪な鈍器での攻撃、中距離では暗器が飛んでくる…厄介極まりない。
 だがこの攻撃で一つ確信する事が出来た。
 目の前の相手は俺を殺すつもりはないらしい、今までの攻撃は全て急所から意図的にずらされている。
 この俺が、随分と舐められたもんだ…腹立たしさが沸きあがってきたがソレを押さえ込む。
 まあ相手に殺意がないと分かればあとは簡単だ、多少強引な手段に出ればいい。
 先刻ホルダーから抜き損ねた銃を抜くと俺は相手との間合いを詰めながら朽ちかけて今にも剥がれ落ちそうな天井に向けて数発の銃弾を放った。
 地面に散らばるコンクリートの屑に相手が怯んだ隙をついて一気に懐へと入り込む。

「あ…!」

 間近まで迫った俺に気が付いた時にはもう遅い。
 コンクリートに気をとられ反応が僅かに遅れた相手の足を薙ぎ払いそのまま強引に押し倒す。
 相手に殺意があるとなればかなり危険で強引な方法だが…やはり目の前の相手は俺を殺すつもりはなかったらしい。

「うわ…!?あッ痛、ぅ!」

 間抜けな声を漏らしあっけなく俺に押し倒され強かに背中を打ちつけた男の口からくぐもった呻き声が漏れた。
 その声を俺はどこかで聞いた事があったような気がしたがそんなことを今気にかけている余裕はない。
 暴れようとした男の両肩を押さえつけ手に持ったままだった銃を顎に突きつける。
 それでも尚抵抗を止めず俺を押しのけようとする相手にとりあえず肩でも打ち抜いて動きを止めようかと思ったその瞬間、厚い雲に覆われていた月が現れ崩れた天井から光が差し込み組み敷いた男の顔を照らし出した。

「…な…っ!お、お前…!?」

 差し込んできた月明かりは僅かだったが暗闇になれた目にはそれは充分過ぎる明かりだった。
 俺に押し倒されている男…それはよく見知った姿だった。
 いや、俺が知っている青年と姿かたちはそっくりだが髪の色も目の色も違う青年。
 顎に銃を突きつけられ苦しそうに細められた目は透き通るアイスブルー、濃紺の髪は月明かりに照らされ透き通った蒼を宿している。

俺が探していた、もう一人のヒューだ。




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