届かない背中を追う。
 何度も何度も、大声で名前を呼ぶのに、叫ぶのに…。
 その声は声にならず俺は酸素の足りない魚のようにパクパクと口を動かすだけだった。
 段々と遠ざかっていく背中。
 ああ、何時もどおりの、ただの夢だ。
 どんなに叫んでも、その名を呼んでも、手を伸ばしても届かない。
 力なくその場に座り込み項垂れる俺の視界に今日は何故か、彼女の足が僅かに見えた。
 俺は目を疑った。
 見上げれば直ぐそこにはあの時と変わらない、優しい笑み。
 俺はよろよろと立ち上がると腕を伸ばし、引寄せ、抱き締めた。
 伝わる確かな感触。
「――。」
 もう一度、名前を呼ぶ。
 いつもなら少しも出ない声が今日は僅かに自分の口から漏れたような気がした。
 恐ろしい程リアルに感じる、感触と熱。
 自分の背にまわされた彼女の腕の感触に俺は強くその体を抱き返した。
 僅かに身じろぎしたその体を逃がさないようにもう一度強く抱き留める。
「逝くな…。もう、何処にも。」
 もう、二度と離したくはなかった。
 どのくらいただ抱き合っていただろう…段々と俺はもっと彼女の感触を確かめたくなっていった。
 確かに存在する、その感触を、その熱を。
 片腕で強く抱き締めたままもう片方の腕で優しく髪を撫で耳に指を這わせる。
 揃いのピアスの感触に愛おしさが強く込み上げ思わず目を細めた。
 指で耳を愛撫しながらゆっくりと頬を寄せ、次に目尻に唇を寄せる。
 日本人にしては少し高い鼻から額、もう一度頬へ唇を這わせ、柔らかい曲線を描く顎を軽く食み、そして唇へ。
 2.3度優しく唇で唇を噛む…伝わるふんわりと柔らかい感触に一気に鼓動が早まった。
 僅かに開いた唇の隙間から漏れる吐息を残さず飲み込み深く口付ける。
 口内へ流れ込んでくる熱い吐息を自分の肺の奥へと送り、再び送りかえし呼吸を共有する。
 僅かに息苦しくなる感覚に眩暈を覚えた。
 そして一度唇を僅かに離し熱の篭った溜息を吐く。
 唇と唇の間から覗く戸惑い気味の舌先に自分の舌先を這わせ、そのまま舌を絡めとり強く吸った。
 綺麗に揃った歯一つ一つを確かめるように舌先でなぞり口内を激しく乱し愛撫する。
 背に食い込む彼女の爪が俺の衝動を煽り、更に激しく舌を絡ませては何度も強く吸い寄せた。
 苦しそうなくぐもった声が体を通じて直接俺の耳の内に妖しく響く…。
 その声の違和感に、俺の意識は夢から現実に引き戻された。
 …外からは陽気なすずめの鳴き声が聞こえていた。
 しかし目が覚めたにも関わらず、まだリアルな感触が、腕に、唇に、舌に残っている。
 ゆっくりと瞼を開いた…その視線の先には、眉根を顰めて酷く苦しそうな自分の顔があった。
 自分?まだ、夢を見ているのか…?
 いや、違う、そうだ、そういえば俺とそっくりな青年…リュウを家に泊めていたんだっけな。
 そこでまた思考は一時停止した。
|  | じゃあ、今、自分が、キスしてるのは…。 まだ寝ぼけ気味だった思考が無理矢理現実に引き戻され正しい結論に達した時、俺は飛び上がって広いセミダブルのベッドから転げ落ちそうになった。 「はッ、うう…。〜ん。」 漸く唇を解放されたリュウは苦しそうに吐息を漏らすと僅かに身じろぎして寝返りを打ち、俺に背を向けて再び深い眠りに落ちたようだ。 心臓が飛び出そうなほどの動悸…今自分の顔は自分で見られないが間違いなく顔から耳の先まで真っ赤だ。 そしてきっと昨日のリュウとの出会いの時よりも猛烈にスゴイ顔をしているに違いない。 自分の口を手で覆い、次に唇を指でなぞる。 よみがえってくる感触に俺は思わず溜息に近い吐息を漏らした。 俺は……とんでもない事をしてしまった。 | 
 朝、リュウより先にベッドから抜け出した俺はキッチンで三個目の目玉焼きを作りながらまだ思考をグルグル堂堂巡りさせていた。
 一個目の目玉焼きはハデに焦がした。
 二個目は知らない間に床に落っこちていた。
 もしも、リュウが気がついていたらどうしよう…。
 キスという行為自体は初めてじゃないのに。
 あの感触を思い出すだけで動悸が一気に早くなり、緊張のあまり心臓が浮き出てしまそうな感覚に思わず目を細め片手で胸を強く抑えた。
 そして気がつけば3個目の目玉焼きはスクランブルエッグになっていた。
「…はぁ。」
 深い溜息をつき、あまりに情けない自分自身に苦笑しようとして顔が引きつる…冗談抜きで余裕のない心理状態だ。
 ふとその時廊下を歩く足音が聞こえこれ以上まだ早くなるのかと自分で感心するほど心臓が激しくリズムを刻んだ。
 恐る恐るキッチンから顔をリビングに出すと丁度リュウがドアを開けて入ってきた所だった。
「あ、ああ、お、おはよう、よく寝れたか?」
 …さりげなく挨拶をするつもりがどもり気味であからさまに怪しい挨拶をしてしまった。
 俺は微妙に引きつった笑みを浮かべながら心の内で自分を激しく罵り舌打ちした。
「ああ、よく寝れたよ。」
 だがリュウは俺の怪しい挙動など気にする様子もなくリビングのソファに座ると朝のニュースへと目を向けた。
…気がついて、ない?
 思わず大きな安堵の溜息をつきそうになって俺は慌てて息を飲み込んだ。
 そのままさりげなく今日の予定などをリュウに聞いてみる。
 リュウの挙動を見る限り幸いしっかり眠っていたのかまったく気がついていない様だった。
― 昨夜の事は、俺の心の奥底にしっかり仕舞い込んで墓まで持っていこう。
 俺は強く自分自身に誓ったのだった。
 後日、アレがリュウにとってのファーストキスになるというのを知り酷い罪悪感に襲われる事を、当然この時の俺は知る由もなかった。
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